塩入街道としての東山峠

この道は七箇村経由金毘羅参拝阿波街道とも呼ばれて、阿波の三加茂・昼間・足代方面から阿讃国境の樫の休場越、または東山越えをして塩入村で合流し、一本松を経て七箇村に入り堀切峠を越え岸上村・五条村を通り琴平村の阿波町に至る金毘羅参りの街道であったそうです。
 そしてまたこの道は讃岐の塩を阿波へ運搬する道でもあり、中世以降にぎやかとなり、うどん屋や旅人宿ができ、讃岐の塩や鮮魚・海産物などと阿波の薪炭・煙草・黍などとの取引が盛んに行われ、藩政時代阿波藩は鎖国の国と言われたが生活必需品の塩だけはこの道を通って阿波に入っていました。
 明治時代に入って交易の自由化に伴い煙草・藍などの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、また借耕牛の行き来も盛んになり、そして明治二十八年(1895)ごろから漸次道路改修が行われ、現在の県道丸亀三好線の基をなしました。
 阿讃国境付近の道路改修は当時としては東山越の方が便利と考えてかこの道を県道として改修したので、樫の休場越は次第に寂れてしまったようです。


以下は「郷土研究発表会紀要第39号」 三好町の伝説より


 三好町は東は三野町、西は池田町に接し、北は県境で香川県仲南町に接し、南は吉野川が流れ井川町に相対していて、四国のほぼ中央に位置する。北の県境は 800900m の山々が肩をならべ、それらに源を発した小川谷、黒川原谷等の谷川が吉野川にそそぎ、総面積の八割が山地である。昭和30年に昼間町と足代村が合併して三好町が誕生した。昼間は「干沼」の転じたものと伝えられ、吉野川の水がせきとめられ干上がって沼地となっていたので名づけられたといわれ、また足代は「網代」の変わったものともいわれ、いずれも吉野川と密接な関係がある。
 三好町の伝説は、上記の位置や地形の関係から吉野川と結びついたものが多いがその反面、吉野川が交通の障害となって北へ峠をこえて、讃岐と結び付いた生活を反映した伝説も多い。南に面して日照時も長く、恵まれた土地に古くから人が住み着き、信仰心も厚かったようで、延喜式内社と記録される天椅立神社、新田神社等の神社や神宮寺や円通寺などの廃寺にまつわる伝説が残されている。各地に大蛇や狸の話は多いが、当町にも多くの伝説が語り伝えられているが、ただ他町村にあまりない狼の話がのこされているのは面白い。
 最近、町史編纂委員会が中心となって、町内各地域に責任者をきめて、分担地域の民俗や伝説を集める作業にとりくんでいるとのこと、この伝説集めにも大いに参考にさせて頂いた。忘れされようとしている伝説の数々、はやく記録しておく必要がある。町史編纂委員の緻密な努力が成功することを祈る。



徳泉寺中興の祖教順

 徳泉寺の教順和尚は寺を再興しようと、日夜努力し心身を悩ませていた。ある夜、本尊より「黒トベの下に一つの塚あり、これを開くべし黄金埋まりおれば汝の苦心を救うに足らん」というお告げがあった。翌朝、そこへいくと塚があり、これを発掘すると果たして黄金が壺に満ちていた。教順は喜びもち帰り、徳泉寺を再興する元手とした。 (東山の歴史)


狼に食われた話

 東山では明治の中頃まで、節季になると琴平へ正月の買い物にいき、めざしや塩鮭、昆布、下駄などを天秤棒にぶらさげて帰ってきたものだった。ある年の暮、数名の者が塩入部落までくると日はとっぷりくれた、寒さは寒いし腹はへる、とある一軒の飲食店に立ち寄って、うどんや酒でしばらく休んだ。そのうちの一人が「わしは一足お先に」と帰りを急いだ。残った者はよい気持ちでいろいろ話に花をさかせながら遅れてその後を追った。
 国境の松の並木道を左右にたどりながら男山部落の峰のお伊勢さんの祠のあたりに来ると、暗闇ながら数間先に幾匹かの狼が音を立てて何物かを食っているのが見える。一行は驚いた。「あれは五郎でないか」、一人は「ちよっと待ってくれ」といいながら滝久部落のよく見える峠へ走りでて、「五郎が食われているぞ」と声を限りに叫んだ。急を聞いて村人が猟銃を下げて駆け上がってきて、火縄銃でねらったが、狼はそれらの頭をけって飛び交いだれ一人発砲できない。茫然と慌てふためくなか、狼は一匹去り二匹去りどこかへ姿を消してしまった。後には一片の遺骸と五郎の天秤棒の荷物が空しく残っていた。一同は、残骸を集めてもち帰り丁寧に葬ったが、間もなくその墓は掘り返され悉く食われてしまった。五郎は神社の周辺に畑をもっていて、祭りの時に踏み荒らされるからと何時も祭りの前日に濃い下肥を撒き散らしたので、里人は神罰だと言い伝えている。男山を越える峠には、少し畑があってそのあたりに狼がよく出るといっていたそうである。 (大西ウメさん談)


しばおり神様(いおりさん)

 東山の男山にある新田神社の境内に、いおりさんが祀られている。今も大谷家ではお祭りをしている。大谷家は新田義貞の一族で、足利氏との戦いに敗れこの地にきて、密かに南朝と連絡をとり再起を計っていた。ある日、京都から密書を持っていおりさんという武士が大谷家にやってきた。大谷家では盛大にもてなしたが、この密書には重大な秘密が書いてあり、この書をもってきたいおりさんを必ず切り捨てるようにと書き添えてある。いおりさんは字が読めず、密書にそんなことが書いてあるのを知らないで届けたのである。
 命令とはいえはるばる京都から密書を持ってきたいおりさんを哀れみ、柴を折りそこへ丁寧に葬むり、祠を建てしばおり神様として祀った。また、男山の新田神社の境内にもいおりさんとして祀った。
 しばおり神様は、旅の疲れをいやすため、しばを折りそれを祀ると元気になるといわれ県道丸亀線の脇にある祠には、しばが絶えない。 (町史編集委員会資料集)


新田神社の話

 戦前まで男山の新田神社では、毎年盆の28日には青年団主催による演芸会や踊りなどを楽しんだ。その頃は音頭が盛んで、音頭だしなどたくさんいて一晩中語り明かした。
 ある年、音頭中で仇討ちの場面を語った時、本殿がガタガタゆれ稲妻が光り、雷が落ちたような大きい音がした。人々は真っ青になり、泣き出したり大人にすがりつく子供もいた。これはきっと新田さんのお怒りに違いない、これからはこんな音頭は語らないようにしようと新田さんにあやまった。新田氏は足利氏との戦いに敗れこの地で滅んだ、だから勝負事はきらいな神様で、祭りなどでも絶対に勝負事はしないようにしている。 (町史編集委員会資料集)

注)上の話に関して、先日の下見の際伺った話では、勝負事の相撲などは12の「狼に食われた所」の前に土俵がありそこで行われていたようです。


 

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